多摩川梨のご紹介

稲城地区での梨生産と「多摩川梨」

多摩川梨

 現在東京でのナシ生産の中心は稲城市周辺です。JA東京みなみの管内には稲城市(110戸)と日野市(25戸)のナシ生産農家があります。

 ナシ栽培は、元禄年間(1688~1703)に川島佐治衛門と増岡平右衛門が山城国(現在の京都府東南部)に旅をして、「淡雪」という品種を持ち帰ったこ とが始まりとされている。その後、天保、弘化の頃に増殖され、江戸時代末には長沼村・矢野口村(現在の稲城市)、菅村(現在の川崎市多摩区)にかけてナシ 畑が広がり、長沼村には10数戸の栽培農家があったといわれています。

 明治17年に13名のナシ栽培農家により共盟社が設立され、苗木や肥料、かご(ナシかごには明治30年代から大正末期まで利用され、東京・横浜方面に出荷 した「東京かご」(4貫目=3.75キロ)と、明治末から戦前まで使われ、八王子、青梅、所沢方面に出荷した「八王子かご」(8貫目=7.5キロ)があっ た)などの共同購入が行われました。
 その後共盟社は加入者が増えたため、一旦解散をし、大字ごとに東長沼、矢野口梨山組合を設立、「稲城梨」として販売を行った。

 明治10年代の販路はせいぜい府中宿、五宿(現在の調布市)あたりでしたが、明治後半になると栽培面積も増え、西は八王子から青梅、東は東京市内、南は横 浜と拡大しました。明治30年の作付面積は13ヘクタールで「長十郎」の導入は明治32年、「二十世紀」は明治38年からです。

 大正8年に東長沼と矢野口の組合が合併して「稲城果実生産組合」を作り、品種の統一、技術講習会、品評会などを行い、肥料、農薬、出荷かごの共同購入等をおこなって産地化を進め、販路の拡大を目ざしました。
 大正12年9月1日の関東大震災はちょうどナシの収穫最盛期の直前で、当時稲城の作付面積は46ヘクタール、樹数32,000本、収果1,400トン、栽培農家150余戸でしたが、全生産の3分の1が落下してしまいました。

 大正末期には出荷容器を竹かごから木箱に変え、昭和初期には2台のトラックを買い入れて、東京、横浜、川越、所沢等の市場へ出荷している。

(参考「稲城市史」・川島琢象「東京多摩川梨の歩み」・「多摩川誌」河川環境管理財団)

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「多摩川梨」

 多摩川の沿岸は古くから梨の栽培が盛んな地域。明治27~28年には現在の羽田空港近くの60ヘクタールものナシ園がありました。

 『多摩川梨』という呼称は組合により商標登録をされ、現在のPR活動などにより広く知られるようになりました。

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「多摩川梨」の代表的な品種と販売時期

多摩(たま) 8月中旬 赤ナシ。「祇園」と「幸水」の掛け合わせ。酸味が少なく、肉質が柔らかで多汁。糖度が高い。東京都農業試験場の作出品種。
幸水(こうすい) 8月中旬~8月下旬 赤ナシ。「菊水」と「早生幸蔵」との掛け合わせ。酸味が少なく、肉質が柔らかで多汁。糖度が高い。早生の代表的な品種。全国で栽培されている。
稲城(いなぎ) 8月下旬~9月上旬 赤ナシ、「八雲」と「新高」の掛け合わせ(作出者談)。早生の品種では珍しい大玉で、酸味は無く、肉質は軟らかく多汁。糖度が高い。稲城市東長沼の進藤益延氏が作出した。東京都内だけで栽培されている。
清玉(せいぎょく) 8月下旬~9月下旬 青ナシ。「二十世紀」と「長十郎」の掛け合わせ。酸味が少なく、肉質・糖度とも中くらい。「二十世紀」よりも病気に強い。稲城市の川島琢象氏の作出品種。
二十世紀
(にじゅっせいき)
9月上旬~9月下旬 青ナシ、偶発発見。酸味がややあり、肉質は柔らかで多汁。糖度は中くらい。東京での栽培は少ない。
豊水(ほうすい) 9月中旬~9月下旬 赤ナシ。「幸水」と「イー33」 の掛け合わせ。酸味があるが食味が良い。肉質は柔らかで多汁。糖度は高い。
新高(にいたか) 9月下旬~10月下旬 赤ナシ。「天の川」と「長十郎」との掛け合わせ。酸味はなく、肉質は柔らかで多汁。糖度は高い。大玉の品種で、貯蔵性に優れている。 東京生まれの晩生梨の代表品種。

 

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